葬儀

兄健一の一周忌を終えて思い出したこと&感じたこと

<今日の表紙>昨年の3月5日の兄健一の葬儀前の家族、親族
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兄健一の葬儀の日から、早くも1年が経ちました。

昨日の帰りの飛行機の窓から見えた春霞の中の山々。DSC06622


葬儀の日からわずかで熊本地震が起きて、別府の家も被害を被りました。

葬儀では、やはり火葬場で荼毘に付して、兄の骨を拾ったことで、兄がこの世からいなくなったと実感できました。

兄の嫁、子どもたちも1年が経つと表面的にはすっかり兄がいない生活に慣れているようです。

1年の間に、孫の成長は僕たち親戚の間にも驚くほどです。DSC06596


一周忌では、兄のエピソードよりも、近況の情報交換のほうがはるかに多い話題でした。

兄のお話しは、僕は兄と雨と霧の中でした2年前6月30日の最後のゴルフのことでした。057
兄の霧の中のティーショットとゴルフが終わってびしょ濡れのショットです。063
この写真が兄(左端)との最後のショットです。

親族の絆を確認するために、一周忌などの法事が重要だなと感じます。DSC06593


息子夫婦も孫を連れて初めて別府の家やお墓参りに来ることが出来ました。

親戚の兄さん、姉さんとも笑顔でお話しすることが出来ました。

今では、僕の他、東京、北九州、佐世保など遠くから別府に集まってコミュニケーションできる機会として兄の一周忌は役に立ちました。

若い人は若い人同士、年寄りは年寄り同士、会話が弾むと何かが生まれます。

今回の兄の一周忌は大勢の親族が集まりにぎやかにできました。

来年の三回忌が楽しみです。

葬儀や法事は、親族のコミュニケーションの機会として大事です。

今の時代では、親族が日本中に散らばっていることが普通ですが、兄や僕が子供のころは、大分県中津市今津の狭い地域で日常的にコミュニケーションをして暮らしていました。

ですから、結婚式や葬儀、法事などでしか集まれないのが現実です。

僕たちの子どもや孫の時代では、それもかなりハードルが高い行事となるでしょう。

老若男女が多く集まって、いろいろなお話しに花が咲くこの日本の伝統を大事にしていかなくてはと思いました。

  兄が逝き 春夏秋冬 廻り来て 集い楽しく 一周忌終わる

来年も、別府の湯けむりが見れますように!DSC06612
昨朝のホテルの部屋の窓から

今朝の穏やかな春のパノラマでお別れします。(6時22分)DSC06625
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今日の曲は、中島みゆき 荒野より



僕の葬儀もアーノルド・パーマーの場合のような笑顔の溢れる葬儀でありたい!(舩越園子さんの「追悼アーノルド・パーマー」)

<今日の表紙>この木の実は〇〇ー〇の実です。
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先日、花屋さんの前を通っていたら入り口付近に置いていました。

可愛い、オリーブの実です。オリーブ・オイルの元です。

先月25日に、かっての偉大なゴルファー アーノルド・パーマー(米)が87歳の生涯を静かに閉じました。

あの、カラフルな傘のマークを思い出す人も多いでしょう。その本人です。

スポーツのビジネスモデルを作った人でもありました。

僕の好きなコラムニスト舩越園子さんが、20日の朝日新聞夕刊の「素顔のプロたち」でパーマーの死を悼んでいます。DSC01458


タイトルは、「パーマーの魂 身近で永遠」

最後にこう書いています。

そう、パーマーの魂は永遠で、そして身近だ。傘のマークのウェアやグッズ。レストランやバー、スーパーでもパーマーに会える。静かにほほ笑むパーマーを感じれば、ほっとして笑顔になれる。だから大丈夫、さびしくないよ。ありがとう、アーニー。

僕は、舩越園子さんのツイッターのフォロワーですので、10月6日の舩越園子さんのブログを読むことが出来ました。

その中に、アーノルド・パーマーの葬儀の模様が詳しく書かれていました。

彼の人柄がよく出ていて、心を打たれました。そして、パーマーの偉大さがよくわかりました。

では、舩越園子著「追悼アーノルド・パーマー 現代ゴルフ界の礎を築いた男の「背中」 あなたはみんなのお手本だった」をどうぞ・・・・・DSC01451

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10月4日(米国時間)の朝。ペンシルベニア州ラトローブのセント・ビンセント大学大聖堂にはアーノルド・パーマーのメモリアル・サービスに参列する人々が続々と詰め寄せていた。DSC01457

パーマーが87歳で逝去したのは去る9月25日。それから1週間以上経ってからこの葬儀が執り行なわれたのは、逝去の翌週に米欧対抗戦のライダーカップが予定されていたからだ。
パーマー自身も1975年にキャプテンを務めたライダーカップは、米国の名誉をかけた大切な戦いだ。
「祖父は自分の葬儀がライダーカップの邪魔になってはいけない、邪魔したくないと思っているはず」とは、パーマーの孫で米ツアー選手のサム・サンダースの言。
そんな親族の意向によって、パーマーの葬儀はライダーカップ終了の翌々日のこの日に設定された。
ライダーカップの会場に設置されたボードには選手もファンも追悼コメントを書き込んだ。DSC01456

近郊のアーノルド・パーマー・リージョナル・エアポートには各界の要人やトッププレーヤーを乗せたプライベートジェットが次々に降り立った。
大聖堂前の広場には、かつて“キング”から王座を引き継いだジャック・ニクラスを筆頭に、トム・ワトソンやニック・ファルドといった往年の名プレーヤー、アーニー・エルス、フィル・ミケルソン、そして現代と未来のゴルフ界を担う若い選手たちの姿もあった。
その昔、アーニーズ・アーミーと呼ばれたパーマーの追っかけ隊に籍を置き、今は70歳代、80歳代になっている元メンバーたちもパーマーを慕う一般のファンも後から後から詰め寄せた。

プロゴルファーとしての「在り方」

先週のライダーカップで8年ぶりの米国勝利に貢献したリッキー・ファウラーが、奪還したばかりの優勝カップを抱いて大聖堂の階段を昇っていった。そして、アシスタント・キャプテンを務めたバッバ・ワトソンとともに優勝カップを祭壇に飾り、現代のゴルフ界の礎を築いた“キング”に勝利を捧げた。
「ミスター・パーマーが行なってきたことは、インサイドロープでもゴルフから離れた場所でも、どんなところでも彼をキングたらしめた。世界中が彼を決して忘れない」
ファウラーはパーマーの現役時代をまったく見たことがない。だが、アーノルド・パーマー招待などいくつかの大会で見たり接したりしたパーマーは、すぐさま彼の憧れの人になったそうだ。
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左から、リッキー・ファウラー、バッバ・ワトソン、フィル・ミケルソン
振り返れば、パーマーのスター選手としての「在り方」は、ミケルソンやファウラーの中にもしっかりと息づいている。
かつて、全米オープンでパーマーと練習ラウンドを回ったミケルソンは、ラウンドを終えたその足でボランティアテントへ向かい、ボランティア全員に声をかけながら握手をするパーマーに衝撃を受けた。
求められれば30分でも1時間でもサインや握手に応じ続けるサービス精神旺盛な今のミケルソンは、そうやって生まれ出た。
そんなミケルソンに倣い、ファウラーもまたファンサービスを誰よりも大切にする選手になった。優勝争いで惜敗した直後でさえ、サインや握手を決して拒まず、笑顔で記念写真に収まるファウラーは、そうやって生まれ出た。
パーマーからミケルソンへ、ファウラーへ。みんなから愛され、みんなを愛する米国のスタープレーヤー。それはパーマーが何より望んだプロゴルファーの在り方だった。

優れたビジネスマンでもあった

大聖堂の左前方に飾られたパーマーの遺影は、ゴルフウエアではなくカジュアルなシャツを着て、優しく微笑んでいた。
メジャー7勝、通算62勝を挙げたゴルフウエア姿のパーマーは、すでにヒストリーブックの中。普段着姿のその遺影は、トッププレーヤーにも草の根ゴルファーにも、ゴルフをする人にもしない人にも、誰に対しても同じ笑顔で接し、社会貢献に余念がなかった晩年のパーマーそのものだった。
フロリダ州に創設したアーノルド・パーマー小児病院では1989年以来、20万人の赤ちゃんが誕生した。パーマー自身が前立腺がんを経験したことがきっかけで2002年に創設した前立腺がんのためのチャリティ基金は、以後、2500回のチャリティトーナメントを開催し、3ミリオン(300万ドル)を前立腺がん研究機関へ寄付した。
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遺影の下方にはパーマーの赤と白のゴルフバッグが飾られ、お馴染みのあのカラフルな傘のマークが鮮やかだった。
思えば、プロゴルフ界で大きなお金が動くビジネスモデルの原型を作り出したのもパーマーだった。
「私は文字取り、お金がなかった」と、生前、プロ転向した1954年当時を振り返っていたパーマー。
だが、1960年にマーク・マコーマック(故人)とIMGを創設し、その翌年にウイルソン(当時)とスポンサー契約を結んだこと、パーマーをシンボライズする傘のマークを作り出し、ウエアやグッズのすべてに傘マークを付けて世に広めたことは、その後のプロゴルフ界、ひいてはスポーツビジネス全体の手本となった。
ゴルフのみならずビジネスの才もあったパーマーの生涯収入は推定675ミリオン(6億7500万ドル)。米ゴルフダイジェスト誌が毎年発表するプロゴルファーの生涯収入番付で、晩年のこの3年間もタイガー・ウッズ、フィル・ミケルソンに次ぐ3位だった。
すべてが大事。すべてが平等
おごそかに、しかし、しめやかではなく和やかに進行していったメモリアル・サービス。
パーマーが天国へ逝ってしまったことは淋しいけれど、悲しむのではなく、たくさんのものをもたらしてくれたキングに感謝して見送ろう。人々のそんな想いが大聖堂に温かい空気を醸し出していた。
檀上に立ち、パーマーとの思い出を語る選手や関係者、友人たち。誰の話の中にも笑顔の優しいパーマーが居た。
パーマーの孫のサム・サンダースが、このメモリアル・サービスを準備していたときの秘話を語った。DSC01454


「会場を決めるとき、一体、何人ぐらいの人々がこの葬儀に来てくれるのかがわからず戸惑った。この大聖堂は大勢の人々を一度に全員受け入れられるほどの広さではない。でも、来てくれた人は絶対に誰一人として、そのまま突き返すようなことがあってはならないと僕ら親族は肝に銘じた。祖父はそんなことは絶対に望まないはずだから」
人間に上も下もない。モノゴトに上も下もない。すべてが大事。すべてが平等。そんな祖父の姿を物語る逸話を孫のサンダースが明かしてくれた。
「決して忘れられない出来事がある。あるとき僕が祖父に電話して『今どこ?』って聞いたら、祖父は『プレジデントと一緒だよ』と言った。それで僕が『どこの何のプレジデントと一緒なの?』と尋ね返すと、祖父は『ユナイテッド・ステートのプレジデントだよ』。
僕は驚いて『大統領と一緒のそんな大事なときに何で僕からの電話なんかに出たんだよ』って言ったら、祖父はこう答えた。『だって可愛いオマエと話がしたかったからさ』」
アーノルド・パーマーとは、そういう人だった。

在米ゴルフジャーナリスト
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最後の孫のサムのエピソードがいいですね!

笑顔で、パーマーを弔うことができる葬儀。こういう雰囲気にできるパーマーの人柄。

憧れますね。

僕の葬儀は、予定では生誕30000日の2033年5月11日以降です。そして会場はもちろん岸バドミントンアリーナ(KBA62)。DSC00214
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今のところ、来ていただいた方には、僕の「最後の晩餐」で食べたい「仙台の牛タン」をプレゼントしようかなと思っています。DSC00221


パーマーの葬儀とは、比較になりませんが、涙も少しあって、でも笑顔で送っていただける葬儀にしたいですね。(汗&笑)

  逝くときは 皆の憧れ パーマーみたい 涙と笑いの 僕の葬式

季節外れの花を咲かせている名城公園の信号角の桜でお別れします。DSC01395


今日の曲は、坂本冬美&谷村新司 秋止符








「遺体ホテル」という言葉知っていますか?

<今日の表紙>きれいに咲いたハナミズキ
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名古屋の街路樹で今が盛りのハナミズキの並木です。DSC02516


昨日のヤフーの検索画面でニュースの欄に「遺体ホテル」という言葉が出ていました。

クリックして詳しい内容をチェックすると、なるほどという答えが頭の中に出てきました。DSC02522


現在1年間の死亡者数は約130万人、2030年には160万人に達するそうです。

東京都内では、亡くなってから1週間以上待たないと葬儀が出来ないこともあり、何日も待たされる「葬儀難民」が増えているそうです。DSC02523


都会では、火葬場の能力が需要に追い付かない状態だということです。

セレモニーホールの霊安室はすぐに満杯になります。

この状態は、これからも当分続くようですので、首都圏や大阪では新しいビジネス「遺体ホテル」が出現しています。DSC02525


大阪北区の「ホテル・リレーション」は2012年に開業。築30年のホテルをリニューアルしました。DSC02528


余談ですが、献体登録者の数も増えて現在の登録者数は26万人です。

大学医学部の解剖実習は、現在はほぼ100%が献体です。

これは、独り身で亡くなる方が増えていることが原因のようです。

遺体ホテルの利用の仕方は、すぐに葬儀ができないという以外に、すぐに葬儀をしたくないという理由で利用することもあるのでは。

いずれにせよ、「遺体ホテル」とか「葬儀難民」とか今までは結び付かない言葉同士が結び付いて、人は亡くなってからもしばらくは死ねない時代に日本は突入したようです。

高齢者(65歳)と呼ばれるようになったら、自分の葬儀はどのようにするかを関係者に示しておくことが大切ですね。そして、5年ごとに見直ししましょう。

葬儀まで日にちがかかるのなら遺体ホテルの〇〇に泊まって△△で葬儀を××万円でするようにしてください。

葬儀での弔辞などは、亡くなっている人に対して、生きている感じで語りかけています。

やっぱり、人は葬儀が終わらないと、この世からサヨナラできないのです。

  人生の 最後の夜の 宿泊は 安眠できる 遺体ホテルで

愛知県スポーツ会館の1階入り口付近のゼラニウムでお別れします。DSC02518


今日の曲は、一青窈 ハナミズキ


見えない力の存在を意識しました。(兄の葬儀が終わって思うこと)

<今日の表紙>別府で泊まったホテルの窓からの朝の湯煙
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昨日は、別府での3日間の疲れがでたのか、昼寝、そして夜9時ごろから就寝。

お蔭で、今朝は5時半には目が覚めました。

ベッドの中で起きる前にまどろみながら頭に浮かんだことは、目に見えない力の存在でした。

重力波など目に見えないことを解き明かすことが科学の力ですが、僕の頭に浮かんだことは、亡くなった兄の目に見えない力です。もっと広く言えば、兄が背中に背負ってきた宮津家の力でもあります。

葬儀には、亡くなった人に縁のあった方々が集まってくれます。

故人の仕事、趣味などで故人と触れ合った人たち、喪主の仕事関係、家族、親せき関係などが中心です。

こういうことが、故人が背負ってきた見えない力です。

この力が日本の葬儀文化となっています。

この葬儀文化によって多くの人にご会葬していただきました。040


兄の葬儀は通夜式、葬儀式の2日間で200名以上の方に弔っていただきました。

200名で、移動時間も含めると、ざっと800時間以上は使っています。

これは、33日分の時間です。

多くの人が、自分たちの日常を削って、かなりの費用をかけて兄のために駆けつけてくれました。

実際の通夜、葬儀の時間は両方合わせて、1時間半ほどでしょう。

結婚式と違って、葬儀は準備期間が極端に短いです。

ということは、どうしても宗教儀式中心に行なわれます。というのが一般的でしょう。

でも、多くの時間を削って駆けつけていただいた人たちへ故人のことを伝える仕掛け(演出)を葬儀会社がもっとするべきだと考えます。

これは、僕が葬儀の映像演出の仕事を長年やって来たエネルギー(見えない力)でもあります。

兄の葬儀では、ホール入口にデジタルサイネージで故人の写真を15枚ほどランダムに出して紹介していました。015
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これはこれで結構なことです。

でもホール内では、故人の面影は、たった1枚の遺影のみ。(今の葬儀はこれが普通ですが)008


兄の葬儀は、すばらしい弔辞や、孫の気持ちのこもったお別れのことばで多くの人は兄を偲ぶことができました。

そして、喪主の挨拶の時に、遺影写真は、市役所の退職祝いの時笑顔のショットだということを紹介して良かったです。

僕の会社の映像演出は、遺影を2枚、途中(たとえば式前、式中)で変えたり、お別れビデオを流したりして、式場側のお勧めする演出で故人を偲んでいただきます。

兄の戒名が葬儀式前に届きましたが、戒名の紹介もありませんでした。037


兄の葬儀では、多くの親戚が集まってくれましたので、繰り上げ初七日のあとのお斎も賑やかでした。

葬儀の中では、お寺様が帰ったあとの数分間に、お友だちなど2、3名に故人とのエピソードを語っていただいたり、お斎の時にも、親戚の人2、3名にエピソードを語っていただくような式場側の勧めが欲しいですね。

葬儀の会葬者は、故人を知らなくて、喪主の関係だったりすることが多いので、こういう心遣いは式場側には必要だと思います。

今は、斎場での葬儀がほとんどですので、こういう流れも簡単に作れるでしょう。

欧米のキリスト教の葬儀は、参列者数人が故人のとのエピソードを教会内で語る時間を取っていることが一般的だそうです。

故人の見えない力によって参列していただいた多くの人の貴重な時間に、故人を強く感じていただきたいですね。

  兄のため 多くの人が 集まりて 面影偲ぶ 見えない力

最後にすごい数字を紹介します。

僕の母の命日3月2日、父の命日3月16日、そして兄の命日3月3日です。

3人とも命日が3月です。

12×12×12=1728ということで1728分の1の確率です。僕がもし3月が命日になると20736分の1の確率になります。

1728分の1で、もうすでに見えない力の存在を意識します。これは決して偶然ではないという。

この世の中は、科学で解き明かされる見えない力と解き明かされない見えない力があるので面白いです。

兄の魂が、天空に入って行くような昨日の日の出でお別れします。016


今日の曲は、GLAY HOWEVER




暖かな春の日和の中、故兄健一の葬儀が無事終わりました。

<今日の表紙>兄健一の遺影をバックにした葬儀前の家族、親族
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昨日は、朝9時から葬儀前の食事を斎場で家族、親族でいただきました。025


10時から集合写真の後に、式場スタッフによる葬儀の流れの説明が行なわれて11時からの式に備えました。

兄が長年勤務していた別府市役所の市長からの敬弔旗です。034
兄が住んでいた北鉄輪自治会からの敬弔旗です。033


戒名も決まり、遺影の前に飾りました。036


葬儀の始まるかなり前に、別府に住む僕の友人の千葉君が来てくれました。039


準備が整って11時から葬儀式の開始です。040


兄が長年勤めていた別府市役所の同僚の方の心温まる弔辞です。044


兄は、別府市役所の仕事で、ごみの分別処理やごみ袋の有料化に取り組んできたことなど、仕事でのエピソードを分かりやすくお話していただきました。

弔辞のあとに、喪主雄一郎の長女、健一の初孫の幸音ちゃん(9)のお別れのことばがありました。045


ジージーに私の子どもを見て欲しかったです。ジージー、お父さん(雄一郎)を生んでくれてありがとうと健一に感謝の気持ちをしっかりと伝えてくれました。046


そして焼香と続きます。048


焼香が終わると、喪主の挨拶です。050


父の仕事のことなど、知らないことが多かったです。僕は福岡の方で、車関係の会社を経営していますが、これから父に相談に乗ってほしいと思っていた矢先の突然の事でした。最後は、弟夫婦との食事中に意識がなくなり、苦しむことの無いままそのまま逝ってしまいました。父にとって幸せな最後だったと思います。

本日はお忙しい中、父のためにご会葬いただきましてありがとうございました。056


兄健一の眠る棺の中に、皆できれいな花をいっぱい入れました。054


出棺前の喪主の挨拶です。058
遺影を持つ次男の長女七海ちゃん(2)です。059


繰り上げ初七日の法要が終わり、お斎が始まりました。069


長い1日が終わり、会食中は、久しぶりに再会した親戚の人たちと昔話などを語らいました。

僕としては、今回の兄の急死から遡れば、昨年6月の大分、別府、中津への親戚を訪ねた旅がよかったなとつくづく思いました。特に、6月29日の兄に連れられて行ったお墓参りは忘れられません。007
兄健一撮影

昨日遅くに東京に住む息子と春日井に帰って来ました。

兄はもう生き返って来ません。

兄の葬儀のお蔭で、兄の息子たちや親戚、そして僕の息子とも、長時間いろいろな話が出来てよかったです。

当たり前ですが、改めて「人生は有限です。」そして「人生はきわめて短いこともある。」ということが再認識できました。

  葬儀とは 身近な死から 生きること 自問自答の 大切な時間(とき)

兄健一が天国に昇って行っているような、昨日の葬儀後の車窓から見た飛行機雲でお別れします。080


今日の曲は、KOKIA ありがとう


兄健一の通夜式に120名近くの人が駆けつけてくれました。

<今日の表紙>宮津家の家紋
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昨日は、ホテルで6時過ぎに目を覚まして外を見ると、鉄輪温泉の湯煙と、006
入港直前のフェリーのサンフラワーが見れました。005


八時半ごろに、兄健一の葬儀会場のプリエール天寿の杜に到着しました。011


兄を納棺するお手伝いをしたり、遺影写真などののセレクト、親戚の宿の手配などで時間が過ぎて4時ごろから親戚の人たちが駆けつけてくれました。

皆さん、一様に兄の急死が信じられない表情でした。

斎場のホール入口には、最近流行し出した、デジタルサイネージで兄の面影を偲ぶ工夫がなされていました。015
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ホールの祭壇です。002
遺影写真は、7年前の市役所退職の際、花束を贈られて微笑んでいる写真から加工していただきました。008


6時から通夜式が始まりますが、5時半過ぎから焼香が始まり、010
6時から読経が25分ほどあり、その後にまた焼香へと続いて、喪主の長男雄一郎のご会葬御礼のことばです。011


市役所の関係の方始め多くの方の焼香をいただき、父は喜んでいると思います。

遺影写真は、市役所の退職時の時の笑顔です。一昨日の夜、弟夫婦との食事中に倒れて昨日亡くなりました。

少し若すぎる一生でしたが、仕事を全うして、精一杯生きて幸せだったと思います。

この写真の笑顔をもう一度見て下さい。

本日のご会葬まことにありがとうございました。

無事通夜式が終わり、控え室で親戚の人たちへの食事が始まりました。016


久しぶりにそろった親戚の輪の中で昔話や近況報告などの会話で盛り上がりました。

突然倒れてから亡くなるまで18時間余りの短さのため、全員がまだ兄の死を受け入れられない雰囲気の中、時が過ぎて行きました。

まるで兄もこの親戚の輪の中にいるようです。

  兄の死を 受け入れられず ひたすらに 楽しい会話 兄に届けと

今日は11時から告別式が始まります。

今日も突然、安曇川(KBA62)へ神葬祭のために帰りました。

<今日の表紙>KBA62から見る今朝の景色
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昨夜、急に安曇川に帰ってきました。

肌寒い朝です。春日井より少し気温が低い感じです。

一昨日、お客様と、亡妻が眠っている覚王山のお墓のマンションを訪ねているときに、電話がありました。留守電で至急連絡くださいとのメッセージ。

お客様と別れてから電話すると、僕が宮司をしている日吉神社の氏子で、神道の家の方が亡くなったとのこと。

神葬祭の依頼です。

昨夜が通夜で、今日が告別式です。最近では珍しいご自宅での葬儀です。

一昨年1月5日、6日の葬儀をした方の奥様がお亡くなりになったとのことです。337
昨夜の通夜の様子です。

今日のブログは、ご主人の葬儀の時もご自宅でしたので、その時の感想のブログをアップします。

タイトルは、<神葬祭の祭員をしました。(自宅葬~家の力)>です。
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昨日は、僕が宮司をしている、日吉神社の氏子で、数少ない神道の人の
葬儀(神葬祭)で再び、安曇川へ帰りました。

昨日の帰る途中の伊吹山です。001



昨日の通夜祭と今日の告別式、帰家祭、十日祭の祭員を務めました。

最近では珍しいご自宅での葬儀です。012



無事、葬儀が終わて、片づけが大変です。

膨大な量のパーツが並べられています。008



親戚の人も、葬儀社の人と一緒に後片付けをします。009



最近は、斎場での葬儀が一般的ですが、ちょっと前までは、こういう光景が一般的でした。

便利なことが流行ると、日本人は、すぐそちらへ流れる傾向が強いです。

お年寄りが、若い人に、この家の事を説明している風景を見ることができました。

実際に、親戚同士が、故人の住んでいた家で語らうことは、斎場ではちょっと雰囲気が
違うようです。

家というのは、歴史を経るごとに、そこに住んでいる人はもちろん、地域の人の物語の
舞台になるんですね。

葬儀も結婚式も、今では、立派な施設で行われています。

便利で、色々な演出ができ、すごくいいこともいっぱい誕生していますが、
その一方で、知らない間に失っていることもいっぱいあるんですね。

育ったところ、家はもちろん、地域は、その人を育てる力になっているのです。

僕も、祭員として、今日の葬儀に参加して、改めて、家の力を再認識しました。

ちょっとひらめいたのですが、お正月などの、家族が集まるときには、育った家の玄関先
や居間など、家族の語らいの場でその雰囲気がわかるバックで集合写真を撮ることを
お勧めします。

離れ離れになっても、その写真を見るときには、きっと家の事も思い出すでしょう。

自宅葬 親子の絆 確かめる 時間とともに 静かにすすむ
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今日の曲は、近藤真彦 夕焼けの歌


    
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